大型犬と暮らす、というと、日本では「可愛いけど、世話が大変だよね」と、たいていはそう返ってくる。まさに、その通り。
ソファに寝そべれば半分は犬に占領され、冬の夜に布団に入ってくれば、ぬくもりと重みで夜中に目が覚める。けれど、その重みを感じながら「まあ、これも悪くない」と思えるのが、大型犬と暮らす人間の特権であり、宿命でもある。
ロサンゼルスのスーパーで、犬がカートに乗っていた
先日、ロサンゼルスに行ったとき、スーパーで買い物をしていて、ふと振り返ると、私の後ろにゴールデンレトリバーがカートに座っていた。
最初は「え、これぬいぐるみ?」と思ったが、ちゃんと瞬きしている。飼い主はオーガニックコーヒー豆を吟味中。誰も騒がない。店員も笑顔。
ここでは犬がいるのが“普通”らしい。日本だったら保健所からお叱りが飛んできそうな光景が、日常の一部としてそこにあった。
サンフランシスコでは、犬はカフェのテラス席の常連だ。
ラテを飲む人間の足元で、バーニーズマウンテンドッグがのんびり昼寝をしている。時々、鼻先を上げてコーヒーの香りを嗅ぎ、また目を閉じる。
犬同士も「おう、久しぶり」みたいに鼻をくっつけて挨拶し、人間は「あなたの子、何歳?」と自然に会話を始める。犬を介した見知らぬ人同士の距離の近さに、ちょっと驚く。
日本だと「かわいいですね」で終わる会話が、ここでは「どこで保護したの?」とか「週末のドッグパーク行く?」まで発展する。犬が“つなぎ役”になって、日常が社交的になるのだ。
日本だと、大型犬は外飼いか、少なくとも「外向き」の存在として扱われることが多い。
ペット可の賃貸物件でも「小型犬のみ」と書かれているのをよく見るし、カフェの犬連れOK席も、テラスが少しある店に限られる。
たしかに日本は狭い。カフェの通路をニューファンドランドが通ったら、カップのコーヒーを全部なぎ倒しかねない。
でも、それって本当に“大型犬のせい”だろうか。むしろ、犬も人間も一緒にいられる空間をつくる発想が、まだ足りないのではないかと感じる。
日本で大型犬を連れて歩くと、時々すれ違う人が道の端に避ける。小さな子を抱き上げる親もいる。
もちろん、安全への配慮は大事だ。でも、アメリカで暮らしてみると、この“避けられ感”は文化の差だとよくわかる。
ロサンゼルスのドッグパークでは、子どもたちが大型犬の背中に手を伸ばし、「ふわふわだ!」と笑っている。そこには、犬を「危険物」として見る視線はあまりない。
おそらく教育やメディアの影響も大きいのだろう。犬との距離感は、社会の“犬リテラシー”とでも呼ぶべきものに左右される。
ところで、大型犬の目線に立ってみると、日本の街はちょっと忙しすぎる。
道は狭いし、人も車も多い。信号を待つ間にも人がどんどん横を通り過ぎていく。
それに比べ、ロサンゼルスの広い歩道やサンフランシスコのパークは、犬にとって“呼吸しやすい空間”だ。
飼い主も犬も、同じペースで歩ける余裕がある。
つまり、犬に優しい環境は、人間にとっても優しい環境なのだ。
生活のリズムを変える存在
大型犬と暮らすと、生活のテンポが少し変わる。
朝は散歩のために早く起き、夜もできるだけ早く帰る。旅行先も「犬と泊まれる場所」を基準に選ぶようになる。
その変化を不自由だと思うか、豊かさだと思うかは、人それぞれ。私は後者だ。
犬のために変えた日々が、いつの間にか自分の健康や幸福感まで底上げしていた。
大型犬は、家の中の家具の配置を変えるみたいに、人生のレイアウトを変えてくる。
日本にいると、大型犬は時々「贅沢品」や「飼い主の趣味」として語られる。でも、実際はもっと日常的な存在だ。
アメリカでは、大型犬は家族そのものであり、街の一員だ。スーパーにもカフェにも一緒に行くから、彼らの毛や匂い、足跡が、日常の風景の一部になっている。
大型犬が暮らしの中でどんな扱いを受けているかを見ると、その国の“暮らしの余裕”や“他者への許容量”が見えてくる。
もし日本でも、大型犬と気軽に入れるカフェやスーパーが増えたら、人と人の距離は少し近づく気がする。
犬がいると、自然に会話が始まる。名前や年齢を聞き合って、犬がきっかけで友達になる。
都会の孤独感をほんの少し和らげる、そんな役割を大型犬は果たせるかもしれない。
犬と暮らすことは、ちょっとした冒険だ。とくに大型犬は、その存在感で日々を揺さぶってくる。
でも、その揺さぶりの中で、人は少しだけやわらかくなれる。
ロサンゼルスのスーパーのゴールデンレトリバーのように、日常に“でかい幸せ”がしれっと混ざる日を、日本でももっと見てみたい。